セリエA入門

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ダヴィデ・アストーリと僕

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先日、「彼」が訪れたことのある下北沢に降り立つと、ふとあの日の記憶が蘇った。

 

 

 

 

2018年3月4日

 

長い長い浪人の1年が終わり解放感を味わっているものの、知りたいのか知りたくないのかわからない第一志望の大学の合格発表を待っている不安定な夜。いつも通り何気なくTwitterを漁っていると、ある知らせが目に飛び込んできた。

 

ダヴィデ・アストーリ急逝」

 

あまりにも現実味のない知らせのせいか、何の感情も湧いてこない。悲しい知らせなのに悲しみを感じない。つい先週までプレーしていた選手がこの世からいなくなることが信じられなかったのだ。しかしある程度時間が経ち、それが現実として受け入れられるようになるにつれて、喪失感と恐怖が胸の中にこみあげてきた。

 

 

正直なことを言うと、僕は彼のファンでも、ましてやフィオレンティーナのサポーターでもない。もちろん彼を良い選手として認識はしていたが、彼の出ていた試合を観ても「フィオレンティーナの一選手」としか見ていなかった。彼への愛着や死への悲しみならばフィオレンティーナ・ローマ・カリアリのサポーターの方がはるかに強いだろう。だが、間違いなく彼の死は僕の心の中の何かを変えた。今ブログに綴っているのもそれがようやく何であるかがわかってきたからかもしれない。

 

 

 

ただ当時でさえ、彼の死は僕にとって「何気なく見ていた一選手が突然いなくなる」だけのものではなかった。もちろんそれは僕が普段から気にかけていたセリエAの選手だったからというのもある。しかし何より「30歳前後のスポーツ選手が突然亡くなる」という事実そのものが僕を襲ったからだ。彼はスポルティエッロとゲームに興じた翌日の朝に、何の兆候もなく心臓発作で亡くなった。スポーツ選手が若くして亡くなる原因は事故が多いため、彼が心臓発作という病気で亡くなったという事実は僕にかなりの衝撃を与えた。「健康体そのものであるサッカー選手でさえ病気で急死するのだから僕も簡単に…」とここまで身をもって実感したのは初めてであった。当時不安定な精神状況であった僕の心をさらに揺さぶっただけでなく、受験勉強の終了から享受していた大きな解放感も明日失われるかもしれないと感じた。この儚さを実感したからか突然身の毛がよだち、上記のような喪失感と恐怖がこみあげてきたのだ。

 

 

 

彼の死から数日経つと、チームメイトや関係者から彼の人柄やエピソードが少しずつ掘り返されていった。しかしどのエピソードも彼の人柄の良さや謙虚さを裏付けるようなものだった。確かに人が亡くなった後は良く言われがちだが、チームメイトや関係者から出る彼への言葉や思いは全て日頃からリスペクトしていないと出てこないようなものであった。彼の死から2年が経過した現在でも彼のことを悪く言う人がいないことがそれの何よりの証拠だろう。

 

このような周囲からの彼への愛を見ていると、果たして自分はどうなのかと徐々に考え始めるようになった。「今」の自分を切り取ったとして、周りから愛され、リスペクトされるような人間になっているのだろうか。自分が「今」終わったとしても、周りの人が僕を思い出す時は心地よい記憶がフラッシュバックしてくるのだろうか。もちろん僕はただの一般人なので街中から愛されるわけではないが、少なくとも僕を知る人だけには愛されるようになりたいと感じるようになったのだ。

 

 

 

さらに、彼の死の直後に感じたあの「儚さ」に対しても色々と考え始めるようになった。その中で仕切りに思うことの一つとして「今死んでも良いと思えるようにしよう」ということだ。もちろん長生きしていたいが、万が一急に生を奪われそうになった時、果たして自分は後悔がないのか。大学生がこんなことを考えるなんて早すぎると思われるかもしれないが、彼の死からいつ何が起こるかわからないと感じた僕にはそれは関係ない。果たして「今」で終わっていいのか。今でも時折それが頭によぎる。

 

 

この2つの点で共通しているのは「今」を切り取っているということだ。僕は少しずつ「今」への執着を持てるようになったのだ。僕は怠惰な人間であり、今も基本的にはそうであるが、この日以来自己研鑽に努める日が明らかに増えた。今までには考えられなかったが、空いた時間に勉強するようになった。結果的に英語が足を引っ張って第一志望の大学に落ちてしまったのだが、その勉強のおかげか英語への学習意欲が上がり、今では英語が得意になっている。彼の死が確かに僕を変えたのだ。

 

 

 

確かに僕が学んだことは、特に大人の皆さんにとっては陳腐なことなのかもしれない。しかし僕は間違いなく彼の死によって身を以て実感したのだ。これは彼からのメッセージだったのだろう。彼に対する思い入れはフィオレンティーナ・ローマ・カリアリのサポーターよりは弱いだろうが、彼の死から感じたこと・変わったことを忘れない限り、間違いなく彼は僕の心の中で生き続けている。

 

 

 

 

僕はほのかな儚さを感じながら心の火を灯し直し、下北沢の地を離れた。

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(下北沢を訪れるアストーリ)